伝統と近代化のはざまで:ブータン国民総幸福量(GNH)の思想と実践
経済指標を超えた幸福の追求:ブータン国民総幸福量(GNH)
現代社会において、国家の進歩や国民の豊かさを測る指標として、国民総生産(GDP)や国民総所得(GNI)といった経済指標が広く用いられてきました。これらの指標は物質的な生産活動や経済規模を捉える上で有用ですが、人々の実感としての幸福や、社会全体の持続可能性といった側面を十分に反映しているとは言えないという批判も少なくありません。このような背景の中で、独自の発展経路を選択し、国民の幸福を国家目標の中心に据える理念を提唱している国があります。それが、ヒマラヤ山脈の東端に位置する小さな王国、ブータンです。
ブータンが提唱する「国民総幸福量(Gross National Happiness、以下GNH)」は、従来の経済的繁栄のみを重視する開発モデルとは一線を画し、国民の精神的、精神的なウェルビーイング、文化、環境といった多角的な要素を重視する概念です。本稿では、このGNHがどのような思想に基づき、具体的にどのように捉えられているのか、またその実践における課題や、世界の幸福観マップの中でどのような位置づけにあるのかを考察します。
国民総幸福量(GNH)の定義と四本柱
GNHという概念は、1970年代に当時のブータン国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク氏によって提唱されました。国王は、「GDPはあらゆるものを測るが、人生を価値あるものにするものを測ることはできない」と述べたと伝えられています。この考えに基づき、ブータンは経済成長を追求するのではなく、国民全体の幸福を増進することを国家開発の究極的な目的と定めたのです。
GNHは単なる哲学や理想論ではなく、具体的な政策決定の枠組みとして機能することを目指しています。その中核をなすのが、以下の「四本柱」と呼ばれる原則です。
- 持続可能で公平な社会経済開発(Sustainable and equitable socio-economic development): 単なる経済成長ではなく、環境や文化を損なうことなく、全ての国民が恩恵を享受できる開発を目指します。
- 環境保護(Environmental conservation): 豊かな自然環境は国民の幸福の基盤であると考え、その保全を国家的な優先事項としています。ブータン憲法では国土の最低60%を森林として維持することが定められています。
- 文化保存促進(Preservation and promotion of culture): 独自の文化遺産や伝統を守り、活かすことを通じて、国民のアイデンティティと連帯感を育みます。ゾン(仏教の要塞修道院)建築様式の維持や、民族衣装の着用奨励などがその例です。
- 良い統治(Good governance): 透明性、説明責任、法の支配に基づく公正な統治が、国民の安心と信頼につながると考えられています。民主化プロセスの推進もこの柱に含まれます。
これらの四本柱は相互に関連しており、いずれか一つに偏ることなく、調和の取れた発展を目指すという姿勢がGNHの重要な特徴です。
GNHの背景にある思想と価値観
GNHの思想的背景には、ブータンの伝統文化、特にチベット仏教の考え方が深く根ざしています。仏教における「中道(Madhyama-pratipad)」の思想は、極端を避け、バランスを重視することを説きます。GNHにおける経済、環境、文化、統治のバランス重視は、まさにこの中道に通じるものがあると言えるでしょう。また、仏教の輪廻転生やカルマの考え方は、現在の行動が未来に影響を与えるという長期的な視点を育み、持続可能な開発や環境保護の意識につながっていると考えられます。
さらに、ブータンの社会構造や共同体意識もGNHの基盤となっています。家族や地域社会とのつながり、相互扶助の精神といった非物質的な価値が、人々の幸福にとって重要であるという認識が共有されています。GNHは、このような伝統的な価値観を、近代化の波の中でどのように維持し、国家開発の理念として統合していくかという試みでもあります。
GNHの実践と課題、そして批判
GNHは国家政策の策定プロセスに組み込まれています。例えば、新たな政策や開発プロジェクトは、経済的影響だけでなく、環境、文化、社会、精神面への影響(GNH影響評価)が考慮されるよう試みられています。また、GNHの概念をより定量的に捉えるため、ブータン政府はGNH調査を定期的に実施し、国民の幸福度やGNHの各指標(心理的なウェルビーイング、健康、教育、文化多様性、時間の使い方、良い統治、コミュニティの活力、生態系の多様性、生活水準)に関するデータを収集・分析しています。
しかし、GNHの実践には様々な課題も存在します。 第一に、GNHのような多面的な概念を定量的な「指標」として捉え、政策効果を測ることの難しさです。主観的な要素を含む幸福度や、文化・環境といった質的な要素を客観的に測定し、国際的な比較可能性を持たせることは容易ではありません。 第二に、急速な近代化やグローバル化の波との両立です。外部からの影響、若年層の価値観の変化、都市部への人口集中などは、伝統的な価値観やコミュニティの構造に変化をもたらし、GNHが目指す社会との間に摩擦を生じさせる可能性があります。 第三に、GNHが政府主導のトップダウン型開発戦略であるという側面です。国民の多様な声やニーズを GNH の枠組みにどのように統合していくかという課題も指摘されています。
また、GNHに対しては、その実効性や、国際社会に対するイメージ戦略としての側面を疑問視する声もあります。しかし、たとえ批判や課題があったとしても、経済成長一辺倒ではない国家運営の理念を掲げ、それを政策レベルで実践しようと試みていること自体は、世界的に見ても非常にユニークであり、他の国々が開発のあり方や幸福の定義について再考する上で重要な示唆を与えていると言えるでしょう。
GNHが問いかけるもの
ブータンのGNHは、幸福が単一の尺度で測れるものではなく、文化、社会、環境、そして個人の内面的な状態が複雑に絡み合った多面的なものであることを改めて私たちに示唆しています。特に、経済的な豊かさとは異なる次元に幸福を見出す視点は、現代社会が直面する環境問題や社会的な分断といった課題を考える上で、重要な示点となり得ます。
文化人類学的な視点から見れば、GNHはブータンという特定の文化圏における「良い暮らし」や「望ましい社会」の定義が、どのように構築され、維持されようとしているのかを示す興味深い事例です。それは、普遍的な幸福の定義を探求する試みであると同時に、文化固有の価値観がいかに開発や社会システムに影響を与えうるかを示す好例でもあります。
GNHの完璧な実現は容易ではないかもしれません。しかし、この概念が存在し、議論されていること自体が、世界の多様な幸福観を理解し、私たち自身の社会における幸福のあり方を問い直すための重要な一歩となるのではないでしょうか。ブータンの試みは、物質的な豊かさだけでなく、精神的な充足、環境との共生、文化的な連続性といった要素も包含する「豊かさ」の定義について、私たちに深く考えさせます。